自己をみつめるその先に

500万年前のアフリカ。その地で人類は誕生したと言われている。

狩猟、農耕、疫病、天災、争い、様々な時代、歴史を経て現代まで発展を続けてきた人類だが、その発展の裏には人類の様々な悩みや苦労があったのは間違いない。

狩猟、農耕をしていた時代は食糧確保の不安や悩み、疫病、天災、争いが多かった時代はどう生き長らえるかという不安や悩み。

いまとは全く環境が違うため悩みの種類は違えど、どの時代でも人は悩みを抱えていたはず。むしろ不安や悩みがあったからこそ、それらを解消すべく様々な試行錯誤を繰り返し発展を続けてきたのは言うまでもない。

では現代人はいま何に悩み苦しんでいるのだろうか。

マズローの欲求5段階説は下から生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現の欲求となっているが、いまでこそ物質的な豊かさを手に入れた現代では、戦争や紛争が起きている地域や極端な貧困の問題を抱える地域を除けばほとんどの人は生理的欲求、安全の欲求は満たされているはずだ。また5段階の最上位に位置する自己実現の欲求とは『自分の持つ可能性を最大限に発揮し、夢や目標を達成したい』という欲求だが、これは生理的欲求から承認欲求までの4段階全てが満たされ、あとは自分の持つ可能性を信じ我が道を猛進していくのみでかなり成熟している状態と言えるため、ここに属する人も全体からみるとマイノリティである。

これらをふまえるとほとんどの人は社会的欲求、承認欲求が満たされていないことに悩んでいるのではないかと考察ができる。

『家族、友人、職場などの集団に属したい、仲間がほしい』という社会的欲求は、友人の作り方を知らない子供世代から、社会復帰がなかなかできず孤立感に悩む子育て世代、孤独死を恐れる年寄り世代までと悩みを抱える世代と悩みの種類の幅が広いのでそれに関しては今後別の記事で細分化して考察していきたいと思う。

ここからは承認欲求について私なりの価値観を書き綴ってみたいと思う。

承認欲求とは『所属する集団から自分の個性や能力を認められ、尊重されたい』という欲求である。自分の性格や得意なことを周囲に認めてもらいたいということは、少なからず自分がどんな性格でどんなことが好きで得意なことは何なのかという『自己』をある程度自認している上で、それを尊重されたいということだが、SNSや動画配信サービスが生活の一部になってきている現代ではこの承認欲求の姿が少しずつ変化している。

SNSや配信された動画を見ればそこには煌びやかで洗練されたものがありふれている。もちろんそうでないものたくさんあるのも事実だが、とりわけ承認欲求に悩む人は他者が輝いている姿をみて自己と比較し、自己嫌悪に陥っているケースが実に多い。そこに映っている人たちの努力や悩みというのは視聴者からはみえにくいため度外視されてしまうのもよろしくない。自己嫌悪に陥るなら見なければいいのではないかと思うが、これまたSNSや動画配信サービスの凄まじいところでその中毒性は計り知れない。なぜならサービスを提供している彼らもあの手この手で行動心理学を巧みに活用して視聴者の注目を何とか引くよう日々、試行錯誤をしているからである。

自分がどうしたいか、どうありたいかということをつきつめていくその中で形成された自己を他者に尊重されたいと思うのが本来の承認欲求であるはずだが、SNSや動画に映る非日常的なものがあまりにも日常に浸透してきているため、それが基準となり尊重されるものであるという錯覚に陥ってしまっている人が特に若い人の中に多い。その錯覚の結果、どうしたら他者から尊重されるのかという思考ばかりが先行し、重要視され、いわばなりたい自分を目指すのではなく、尊重される自分がなりたい姿になっているのだ。

そういう思考で生きていると他者からどう見られているかということが重要になり、『他者からみえる自分』ばかりが気になりだす。そうすると次第に必ず自己を俯瞰して捉え過ぎるようになる。ゲームでいうと主人公の目線でゲームを進めるのではなく、上から主人公をみながらゲームをしているような感覚である。自己を俯瞰して他者と比較をしながら尊重されるにはどうしたらいいのかを考えて生きるのである。

たしかに自己を俯瞰してみつめることは非常に大事である、俯瞰してみることによって新たな発見をすることもあるだろう。自分の立ち位置を広い視野でみて進むべき方向が分かることもあるだろう。

だが自己を俯瞰して見つめ過ぎるのはあまりにも危険である。

なぜなら自己を俯瞰して見つめ過ぎるとその中の欠点ばかりに目がいくからだ。

1ピースだけ欠けたパズルを眺めていると欠けた部分ばかりに目が奪われる。たとえ全体のピース数が100個でそのうちのたった1個だけが欠けているだけだとしていてもだ。人は不完全なものを見つめ過ぎると足りないところばかりに目を奪われ、大事なことを見落としてしまう。それと一緒で自己を俯瞰して見つめ過ぎると自分の嫌いな部分ばかりに目がいってしまう。自分の嫌いな部分ばかりをみているとその嫌いな部分だけが顕著化、肥大化し、いずれそれが『コンプレックス』に変わる。自己に備わった素晴らしい部分がたくさんあるのにそれを見ようとせずに。

過ぎたるは及ばざるがごとしということだ。

99個の完全に揃ったピースよりも欠けた、たった1個のピースに目が奪われることから負の印象はそれだけ強いと言える。

忘れていた一万円がポケットから出てきた嬉しさより、道に落としてしまった一万円の悲しい負の感情の方が記憶に残るのもそういう理由からだろう。

負の感情と付き合うのは非常に難しい。負の感情を完全に消し去ることはもっと難しい。意識すればそれは大きな壁となって目の前に立ちはだかるが、意識しないよう意識するのも矛盾している。それが自分の欠点やコンプレックスとなると意識せずにはいられなくなるため話はことさら難しくなる。ではどうしたらいいのか、非常にシンプルなことだが決して抗うことをせずにありのままを受け入れてあげることだ。単純な話かと思うかもしれないが、このシンプルで単純なことをできない人がどれだけ多いことか。それだけシンプルで単純に見えるが実は難しいということの裏返しでもあり、また理解することとそれができることとは別問題なのである。そして現代にあふれる情報やものがそんな簡単なことを難しくしているのも事実である。

だがそんな世界は変えられないがあなた自身を変えることはできるはず。ありのままの自分を受け入れることはたしかに容易ではない。受け入れ難い事実を受け入れるのは相当な精神力が必要になることもあるだろう。ただほんの少しでもいまのありのままの自分を受け入れらたら世界は変わらずともあなたの目に映る世界は少し変わるかもしれない。むしろあなが変わらないことには、あなたの目に映る世界が変わることはないかもしれない。

他者と比較をして自分を俯瞰して欠点をみつめることよりも、もっと大事なことがあるはずだ。

それはあなた自身があなたを正面から受け入れ、しっかり愛してあげることだ。

自分で自分を尊重してあげられない人間が他者から尊重されたいと願うのはこの上ない自惚れではないだろうか。

たしかに人は誰しも比較の中で生きるものであるが、他者の価値基準で生きる必要は全くない。

あなたが生涯間違いなくずっと付き合い続けるたった一人の人とは他の誰でもなくあなた自身だ。そんなあなたをあなたは大事にしているだろうか。

あなたはあなた以外の何者でもないし他の何者にもなってはいけない。

この美しく尊い地球に生まれてきたあなたが美しくなく、尊くない訳がない。

ありのままのあなた自身を受け入れ、そのあなた自身を目の前に広がる世界に叩きつけるべきだ。

承認欲求とは他者から満たされるものではなく、自分自身で満たすべきものではないだろうか。

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